鹿島神社縁起 (参道の絵馬より)
この部落は元禄二年(1689年)編纂の「姫路御領内村村控」の中に地徳新村として記載されておりますから村として認められたのはそんなに古いことではありませんが、只今の部落東北約七百米の字西坂(香呂山)と言うところに大日屋敷という地名が残っており、かつてここには今の阿弥陀部落西端にあります岩尾山大日寺の前身であるお寺があったことが言い伝えられておりまして、その遺跡から今日尚発掘されます瓦の鑑定の結果では藤原時代のものとされております。また、他の史実によりますと「天正の頃阿弥陀村香呂山字大日屋敷に大日山構居あり」とあって、そこには当時の三木城主別所長治の幕下蔭山某がおったと伝えられておりますところから考えますと、この地には寺院もあり砦もあって盛んだったことが偲ばれるのであります。
寺院には鎮護として境内に守護神を祭ることは当時の慣わしであり武士の構居のあった当寺院にも武甕槌命(たけみかづちのみこと)、経津主命(ふつぬしのみこと)が祭られておりました。ところがその後、天正六年羽柴秀吉の軍が志方神吉の城を攻略いたしました際は、この地も戦果を蒙って灰燼に帰したと言われております。こうしてこの地は戦国末期に一時荒廃していましたが私どもの先祖はこの地を慕って再開発を志しましたのが、寛文の初め頃と推定され、寛文五年の初頭には時の藩主榊原忠次公の命により奉行安藤左近右衛門、富塚久右ヱ門の両名が実地検分吟味の末願い出の通り許可になったことが書き残されております。
そして開発が進み住みつく人々の数が増えるにつけ鎮守の宮建立のことが議に上り只今の社域景勝をもって聞こえる鷹の巣掛山の栄を卜して社を建てかつての祭神即ち武神武甕槌命(たけみかづちのみこと)経津主命(ふつぬしのみこと)を勧請いたしました。尚社殿の建設に際し当時の藩主松平尚矩公にはこれを奇特のこととして各種の資材を寄進されております。
かくして当社は代々の姫路藩主の崇敬篤く元禄元年(1688年)の再建に当たっては境内地として五十間四面の土地が献ぜられ社地を免除地とされたことが古文書に残っており、また祭礼の時には藩主と利得氏が派遣されて奉齋されることが例となっておりました。この間に神威のあらたかなことが次第に遠近に聞こえて「鹿島大明神」としてあらゆる階層の人々が親しみ詣でて今日に及んでおりますが、その間の消息が古い絵馬や今日社務所に所蔵しております「鹿島大明神」という享和元年(1801年)の圓春上人の書になる掲額を見ましても窺えるのであります。
当社はその信仰の面からは一人一願を心定めてお参りするとき霊験の著しいことをもって一願成の神として聞こえております。また神社前にて香をたくという珍しい慣わしがありますが、これは戦国時代武将が出陣に臨んで神社に詣で甲(かぶと)に香をたきこめた勇ましくも床しい故事が慣わしとなったと伝えております。
何時頃よりかお礼詣りする人々が常緑樹の苗木を奉納することが例となり一名青木の神とも言われてきておりますが、現今ではその常緑うっそうして神域の荘厳を加えております。
以上、極めて簡単でありますが当社の縁起を述べさせていただきました。私どもは先祖の霊眼をもって名付けられましたこの「地徳」の村の名をはずかしめぬよういよいよ神意を奉ってご参詣の方々と相共に弥栄えゆきますよう奉仕の誠をつくさんことを期しております。
車の祈祷所です。車を購入したときに、ここに車をもってきて、神主さんに交通安全のお祓いをしてもらいます。そんな物は迷信だ、効果は期待できないという方もあるでしょうが、信じる心は人それぞれ。自分の注意の及ばないところは、神様に助けていただこうという気持ちが私にはあります。
境内は、きれいに整備されています。
私たちが行ったときには、赤、黄色に紅葉している木があり、
また、緑色の木もあり、鹿島神社の境内を散策するだけでも、
紅葉をじゅうぶん楽しむことができました。若葉やサクラの季節なら、またちがった表情を見せてくれることでしょう。
鹿島神社の参道です。
参道の両側には、かしわもち、おみやげ物を売る店がずらりと並んでいます。
また、たこ焼き、ヤキソバの露店、姓名判断、焼き物の店、植木屋などがあり、とてもにぎやかです。なかでも、かしわもちのお店が特に多く、鹿島神社の名物となっています。私たちも、ひとつ買って食べました。100円でした。おなかがすいていたので、とってもおいしかったです。
みなさんも、ぜひどうぞ。
参道の入り口にある鳥居です。なんだか懐かしい感じのする鳥居です。ここより先は、お祓いの車など、用事のない車の乗り入れは禁止となっています。手前に、広い駐車場があります。普段は無料ですが、お正月は、駐車料が必要です。